昔、昔、その昔、、、
by Ken1

2008年07月23日(水)
 051  博覧会
 万国博覧会というのではないと思うが、博覧会が来たというので、おじいさんと出かけた。長い時間、列車に乗っていた記憶がある。駅を降りてから山道を長いこと歩いた。その道は、新しく作られた道のようだった。道ばたの電柱には、博覧会の小さな看板がずらーと並んでいた。まるで田舎道で、人の姿もない。
 ところが、その先に博覧会はあった。どこから来たのかと思うほど、人がいた。
 展示は、ただカーキ色の飛行機とかが無造作に並べてあるだけで、木の階段を上がっても、単座のコックピットをのぞき込めるだけだった。
 そばには、何の飾り気もないテントが張ってあって、列を作って中に入ると、木の机の上に電信の送信器がおいてあった。キーを押すと、ピーと音がした。びっくりして、手を離すと、次の人と交代させられた。そのキーを押したくて、二回そこへ行った。
 「これがしたかったんか」と言われて、訳もなく何か恥ずかしかったのを覚えている。
 どこで、何の博覧会だったのだろうか。記憶の中では奈良という気がするが自信はない。
 また、あの長い山道を、おじいさんと歩いて帰ったのだろうか?

2008年07月23日(水)
 052  潮干狩
 おっちゃんの自転車の荷台に乗って、天川の土手をのんびりと海に下る。土手の道は平坦で、川の流れもゆるやかで、よどんだ水はほとんど流れていないように見える。田んぼの中には珍しい、嫌な臭いの硫酸工場の脇を通って、レンガ工場を過ぎると、海が近くなり、川のにおいが海のにおいに変わる。
 土手を登ると、道がなくなり、自転車を置いて、塩田脇の柵の切れたところを、悪さをしているように、こそこそと歩いていくことになる。海はみんなのものだったのだろうか。それとも、すでに私有地化されていたのだろうか。家を出て海まで1時間以上もかかったと思うが、定かではない。
 河口では、また水が流れる川岸になっていて、その砂利の多い岸で、熊手を前後に動かすと小さなあさりがざくざくと見つかる。おばあさんは採れる端から樽に放り込む。貝殻の模様が一つ一つ違っているのが不思議だった。大きいのは、バカ貝と呼んでいた。はまぐりが美味しいと言われても、なかなか見つからない。おじいさんは、沖の方に出て、腰まで海水に浸かって足で探している。こういう時は、信じられないようなやり方で、大きな蛤を、足の親指と人差し指でつまみ上げる。
 飽きてきて、岸のカニで遊び始めると、まてがいを採ろうとおじいさんがやってくる。岸に無数に開いた小さな穴の一つを掘って見ろと言う。これが、なかなか掘って行けない。ついにギブアップ。すると、どこで見つけてきたのか、細い竹を差し込んでいく。最後にぎゅっと突き刺して、そっと取り出しとまてがいが引き出される。まねをしても、絶対に採れることがなかった。
 しゃこも採れたが、これはカニと比べると、姿が気持ち悪かった。
 帰りの自転車の荷台には、サドルと荷台との間に樽があるので、半分はみ出した尻の据わりが悪く、居眠りどころではなく、自転車を漕ぐおっちゃんにしがみつくだけだった。
 あの暑かった日は何時のことだろうか。

2008年08月15日(金)
 053  ジャガイモの来た道
 山本紀夫:「ジャガイモのきた道−文明・飢餓・戦争」(岩波新書,2008年)を読んだ。
 まずはペルーの高地に文明を成立させ、それはスペイン人に征服されるまで飢餓のない農耕文明を可能としたこと、戦争と飢餓をきっかけとしてヨーロッパに広がり、アイルランドの人口増をもたらしたこと。ところが、このクローン植物を、しかも1品種だけ栽培したことが、ジャガイモそのもののウイルスによる疫病発生の原因となり、アイルランド移民を大量に生み出し、ケネディ大統領誕生につながる。この話をすると、スウェーデンでも同様のことを経験して、小学校の授業で取り上げているという。
 この本は、前に読んだ「世界を変えた6つの飲み物」と比べると、文化についての深い洞察はないが、それなりにおもしろかった。この際、トウモロコシとの比較などやめて、タロイモやサツマイモなどの伝搬まで入れれば、人類の広がりとの関係も分かっておもしろかったと思う。
 いずれにしても、ソラニンなど有毒成分を含むジャガイモを栽培し、水分を含んで貯蔵に適さないと言われるのを、収穫量の多さと、栄養価で穀物をしのぐという視点はおもしろい。
 子供の頃は、ジャガイモはみそ汁に入っているのは大好きで食べたが、ジャガイモだけを砂糖と醤油で甘辛く煮たのは、あまり好きではなかった。それよりはまだ、子イモ(里芋)をカツオ出汁で煮たもので、茎の部分が少し付いている親イモが入っているのが好きだった。
 芋掘りというのは、一般的にはジャガイモではなく、秋の終わりの頃に山の段々畑にサツマイモを掘りに行くものを指していた。
 それが、コロッケになったり、カレーに入ったり、また肉じゃがになって広く使われるのは、だいぶ経って、農家の食生活が変わってからだと思う。ジャガバターなどというのは、それこそ大学時代に北海道を旅行している時に初めて食べたように思う。ポテチ(ポテトチップス)も同様、子供の頃には存在すら知らなかった食べものだ。あの油と塩まみれのお菓子は、ビールのあての乾き物としては少しきつすぎる。
 就職して上京し、鎌倉のドイツ料理店のを食べて、調理したジャガイモはドイツビールにぴったり合って、とてもおいしいと思ったものだ。

2008年10月03日(金)
 054  蔵が動く
 「蔵が立つ」というのは、何かで大儲けしたことを指す。蔵は、ただの入れ物で、その中に保管に値する品物があってこそ、意味があるのではないだろうか。とはいうものの、どっしりとした厚みを持つ土蔵にも迫力がある。
 蔵に入ると、電気のスイッチを入れて裸電球の明かりがともるまでは、本当に真っ暗闇だった。一階には米俵が積んであり、豆なども保存がされていた。二階に続く階段を上り、横に滑らせる扉を開くと、そこにもかび臭いよどんだ空気が感じられる。壁際にある小さな明かり取りの窓を押し開けると、光と一緒に新鮮な空気が入ってきて、ほっとする。
 見渡すと、一メートル角ぐらいある木の箱やつづらが一杯並んでいて、その中には、丁寧に一枚ずつ紙でつつんだ皿やお椀、それに衣類が入っていた。結婚式や葬式など村の人が集まっても充分な数の食器類や座布団があったように覚えている。
 「家を建てる時には、この蔵に住んどったんやで。」と、おばさんの一人が言う。
 「寝るだけやのうて、ご飯炊いたり、炊事もしとった。」と、これは別のおばさんだ。
 「蔵が動く」というのは、俄には信じがたい。
 元々の場所は今より蔵一つ分南にあった。蔵が動いたのは、学校に上がるようになってからの出来事だ。蔵の土台の下に無数のジャッキが並べられていたのを覚えている。ところが、肝心の蔵が動くところを見ていないのだ。朝、いつもの場所にあったのが、学校から帰ってくると、もう動いた後だった。まるで、テレビドラマで一番の場面を見逃した、そんな気分だ。
 当時は、自動車など、村にはなかったし、クレーンなどの重機というものも想像できなかった。動力源は牛だろうか。何頭もの牛をロープにつないで働かせたのだろうか。それとも滑車を使って、地面に打ち込んだ杭に固定して、少しずつ引いたのだろうか。それも聴いたのかも知れないが、思い出せない。
 蔵に入るには、炊事場の土間から石段を上がり、閂を外して、重い木製の扉を力一杯引き開けなくてはならなかったが、炊事場の土間に床が張られ、かまども電気炊飯器になって、台所に変わると、温度や湿度の変わらない土蔵は物置として重宝した。

2008年10月03日(金)
 055  巳さん
 蛇は、村の子供達にとっては恐怖の対象でもあるし、見つけ次第やっつけるべき不倶戴天の敵のような生き物でもあった。これは、いわば村の子供達の遺伝子に組み込まれていた。大蛇が、子供を飲み込む昔話と共に刷り込まれた恐怖かも知れない。
 ところが、白い蛇となると、突然に「巳(みー)さんや」「神さんのお使いや」と変わる訳で、子供心に訳が分からんということになる。この神さんのお使いは、幸せを、特に金銭面の幸せをもたらすお告げとされていた。
 その白い蛇を見たのは、例によって、普段から神懸かりの言動癖を持つおじいさんだ。蔵の外を覆っている板の隙間に入って行くのを見たという。どうやら、その狭い空間で脱皮をしたばかりのようで、抜け殻が残っているはずだと言う。
 我が家は、養子に入ったおじいさんの代では、特に金持ちになることもなかった。その話は確かめようもなく、半信半疑に受け取られていた。
 蔵を動かした時には、白い蛇の抜け殻は見つからなかったと、親父が言っていた。ということは、「嘘や、あるはずない」と言いながら、一応探してみたんやと思ったことだ。
 おじいさんは、実現の見込みのないお金持ちになることを願うあまり、幻を見たのだろうか。あるいは、長い年月が経って、薄い皮は風に吹かれて飛び散ってしまったのだろうか。

ホーム その昔、、、