昔、昔、その昔、、、
昔、昔、その昔、、、
by Ken1

2007年07月01日(日)
 000  はじめに
 昔、昔、その昔、もう一つ昔の、さらに昔の話。十年を一昔とすれば、五十年、すなわち、半世紀前にもなる過去の話である。
 「はるかな国 とほい昔」(W. H. Hudson著、寿岳しづ訳、岩波文庫)の第一章に「最初の思ひ出」があって、どうして書く気になったかが書いてある。過去も別の場所も記憶の中では、一瞬にして到達することが出来る。ところが、ハドソンの言う、「雲かげや靄がすっかり拭はれて、広々とした景色が端から端まで、胸のすくほどはつきりと眼下に展開したやう」には見えてこない。むしろ眠っている間に見る夢のように、自分ではどうしようもない展開になっていく気がする。
 また、「サーラピーの咲く季節」(Suwannee Sukonthiang著、吉岡峰子訳、段々社)には、「幼いころ、身近に飼っていたいろいろな生き物の思い出を、記憶の一頁に留めておきたかったからに他なりません」とある。また、「追憶にふけっていると、とても親しかった人たちのひとりひとりが、いきいきとよみがえってくるのです」とも。 スワンニー・スコンターが書こうとした彼女の可愛がっていた生き物や、田舎での自然などが、 とても馴染みのある世界に思える。これが、昔の話を書き留めようとした一番の理由かも知れない。
 そもそもは、パソコンを始めた頃、漢字かな入力の入力キーだとか、変換に慣れるのに一日二話と決めて、書いていたものが下書きだ。時と場所は、全て記憶の中のもので、場合によっては現実のものと異なっているかも知れないことを、お断わりしておきたい。文学的誇張と解釈してもらえればいいのだが、時として記憶が変化してしまうこともあるので。  

2007年07月01日(日)
 001  蜂の小屋
 春は盛りであった。
 学校道を村の方に曲がらずにまっすぐ東へ行くと、T字路になる。南に少し歩くと、小さな川を渡った先に一坪にも満たない粘土作りの小屋があった。
 地面から生え出した土のかたまり。壁は古くなって上塗りが剥げ落ち、下地の荒い粘土がむき出しになっている。無数の穴が粘土に開いていて、沸き立つような羽音がして、たくさんの蜂が飛び回り、出入りしていた。蜂の出入りの器用さは途切れることのない羽音と一緒に見飽きないものだった。
 ニュージーランドに辿り着いたミュータントの子供達が、つい興奮して大きな声を出して、みんなに謝った後で、言う。どうして、このわくわくする音に似たあたり一面をみたす輝きのことを、だれも教えてくれなかったのと。「さなぎ」(The Chrysalids by John Wyndham 峰岸久訳、ハヤカワ文庫SF)
 ブンブンいう羽音は、春の暖かさを、心から実感する一時だった。  

2007年07月01日(日)
 002  カエルで女の子を釣る
 「海老で鯛を釣る、釣った鯛で鯨を釣る」という話があるが、これは、カエルで女の子を釣り上げた本当の話。
 カエルは、それほど味にはうるさくない。魚釣りに使うシマミミズでなくても、大きくて生きのいい普通のミミズで充分だった。動くものに反応する習性だ。まず、庭の物干し台にしてある石臼をひっくり返す。中心に差し込んである棒をテコの要領で傾けると、物干し台の下は、じめじめしていて、ミミズの住処の証である、波打った道とフンに混じってミミズがいた。じっとしているが、掴もうとすると、激しく身をくねらせる。ねばねばした液が指先にいつまでも残った。釣針は、行商の魚屋さんから買った魚の喉から取り出した宝ものだ。大きくて、サビている。
 生きのいいミミズを釣針に通して、竹竿から垂らした糸の先のミミズを、静止しているカエルの目の前で動かすと、目にもとまらぬ速さで飛びついてくる。その瞬間に、竿を動かせば、見事にカエルが釣れるという訳である。タイミングが全てだ。釣れるのが殿様ガエルだと、手応えの引きは充分だった。小さな土ガエルは好まれなかった。アマガエルは小さすぎて釣れなかった。
 「何が捕れたん。見せて、見せて。」、とハスキーボイスで、近づいてきたのが、知り合いの女の子。竿の先を見ようと近づいて、覗き込んだ。その直後、「きゃー」と叫び声が上った。何がどうなったか分からなかったが、先ほど吊り上げたカエルは跳んで逃げて、後にはくるぶしに針を付けた女の子。
 くるぶしの針は、簡単には外せなくて、病院送りの大事になってしまった。
 この日の釣果。カエルには逃げられたのでゼロ。他に女の子一人。推定年齢は僕より1つ上。おまけは、お目玉にもらった、げんこつ?  

2007年07月08日(日)
 003  泳ぐ蛇
 田んぼは水を張られて、代かきも終わり、田植えを待っている時期だった。あちこちでさまざまな蛙の鳴き声が聞こえた。地面の下では、オケラのジージーという鳴き声も聞こえていた。
 村のはずれを南に流れていく溝では、水かさは、岸の土手に届くほどになっていた。そこには、フナなどの小魚が群をなしていた。ひょっとすると、なまずとか大物がいそうだった。溝と田んぼを分けている畦の表面は足首ほどの丈の草で、田んぼ側のノリ面は泥土で塗り固められていた。
 子供数人で夢中になって小魚を追いかけていた。網を持つ子、追い込むのに棒きれを持つ子、金属のバケツを下げて取れた魚を運ぶ子などが一緒に駆けていた。
 畦道を行くと、草の間に蛇が横たわっているのが見えた。舌をちょろちょろと出し入れしているが、じっとして動かない。それほど大きくない。後ろから、仲間の子供が詰めてくるので、助走をつけて、えいやっと蛇の上を飛び越した。両方の足で着地して、前を見ると、もう一匹の蛇が横たわっている。危うく踏みつけるところだった。今度の蛇は、大きくて長い。とても飛び越すどころではない。引き返すことも出来ない。挟まれてしまった。
 とっさに横飛びして、水の張られた田んぼにずぶずぶと入っていった。すると、どうしたことか、前と後ろの2匹の蛇も後を追って飛び込んできた。あんなに驚いて、怖かったことはない。もう最後かと思った。
 驚いたのは、蛇も同じだったようで、こちらに向かって来るのではなく、横をすり抜けて、水上を泳いで行く。身体全体を優美にくねらせて、遠ざかっていった。
 田んぼ全体に、波紋が広がっていく。指差して騒ぎ立てる子供たちが畦道に取り残された。  

2007年07月08日(日)
 004  6つの飲み物
 世界を変えた6つの飲み物ということで、おもしろい本を読んだ(A history of the world in 6 glasses by Tom Standage 新井崇嗣訳、合同出版)。紀元前から現代までの歴史というか、人口爆発など、政治・経済などが充分に織り込まれている。これにならって、書いていこう。
 とりあえずビール。というわけではないが、これには、学生時代、家を離れて、自由を謳歌しながら、サークルの仲間で乾杯するという、楽しい飲み物の思い出がある。最初の頃あんなに苦いと思った記憶はどこに消えたのだろうか。テニスの後で、ワイワイ言って飲むのも楽しい。会社で定時後のテニスのゲームにかけて、その後、打ち上げをやったことがある。本人は酔っ払っていることを自覚していたので、酔ってないと称する友人の運転で自転車の後ろに乗せてもらったのが災いした。自転車が転んだ時に、「しらふ」の友人は、飛び降りて難を避けたが、酔っ払いは、見事に地球と衝突したものである。反省して、1年程はアルコールを口にしなかった。30年ほど経った今でも、人工の前歯メンテナンスが続いている。
 ワインは、おじさんが飲んでいた、赤玉ポートワインという、色のついた飲み物だ。甘ったるい味と記憶するのは、子供の頃に飲まされたのだろうか。それとも、単なる思い込みか。銘柄や産地や収穫年を話すような雰囲気ではない。それよりは、日本酒だった。村の宴会や寄り合いと称する集会では、日本酒が出された。それも、一升瓶や、あるいはお燗した形でだ。人が多い場合は、薬缶でお燗をするという手っ取り早い方法も取られた。その後は、真っ赤な顔だけではなく、たいてい正体をなくすほど、へべれけになる人が出た。これは、普段の生活では、あまり飲む機会がなかったので、只酒と思い無茶飲みをしたせいか、遺伝的にアルコールに弱かったせいか、よく分からない。
 蒸留酒は、あまりポピュラーではなかった。まむしが捕れたときに、漬け込んだりするのに、焼酎を使っていた。上がり蒲地の下に、生きたまま漬け込まれた一升瓶が置いてあって、埃を被った瓶はそれなりに薄気味悪かった。学生時代、友達とジョニ黒を空けた。次の日はアイススケートの約束をしていたが、重力に逆らって滑るというよりは、地球が回るのを実感したものだ。ウイスキーが足に貯まってしまって、腰が抜けてしまった人も知っている。自分で、こけもも酒を作ったことがある。これは実においしいのが出来た。ただ、ウオッカベースだよと言っているにもかかわらず、強すぎて飲んだ後、帰れなくなった人が出た。これも当事者達の歴史を変えたことになったのではないかと思っている。蒸留酒は並の日本人には強すぎる。水割りがいいとは思わないが。
 コーヒーは、子供の頃にはなかったが、いつの間にか出現して、あっと言う間に広がった気がする。それは、田舎独特の贈答文化による。インスタントで瓶詰めの物は、そこそこ重量と体積があり、封を切らない間は保存がきいた。これは、盆暮れの贈り贈られるのに、あるいは、結婚式や法事などの引き出物や手土産にカップなどと相性が良かった。ただ、ある時期から、僕は全く口にしなくなった。今でも覚えているジョーク。コーヒー専門店で注文した時に、「銘柄は何にしますか?」と聞かれて、「ネスカフェ」と答えたら、ウエートレスが困って、「いえ、そういうのではなく、キリマンジェロとかブルーマウンテンとかいうのでお願いします」と言った。「それでは、マウント富士をお願いします!」
 お茶は、子供の頃から日常の飲み物だったが、多くは番茶で、それも茶葉を直接薬缶に放り込んで、熱いままで、あるいは、冷めてから飲んでいたものだ。茶葉を小さな物(紅茶で言うブロークン?)で購入すると、さらに安かったし、経済的だったと思われる。もっとも、おばあさんが好んで行った、その行為自体は、ケチと見なされていた。さらに農作業の忙しい時などは、茶葉を入れない、白湯を飲んで満足していた。紅茶は、滅多に出なかったが、おじさんが、アルミの小さな薬缶で出していたことがある。茶葉は、緑茶と違って、立方体の缶に入っていた。その蓋を、スプーンの柄でこじ開けるのがおもしろかった。疑問に思うのは、新幹線の中で、コーヒーはものものしくコップに入れて出してくれるのに、紅茶がないのは何故?
 コカコーラは、小学校の卒業式間近の茶話会という、先生方への謝恩会で出された飲み物だった。色の褐色なのと、炭酸で強烈な刺激を受けたのを覚えている。あるいは、カレーと一緒に出されたか?先生方の恩に感謝するという会の目的は、講堂で生徒が整列して、向かい合って、床に座らされるという儀式の間に、すっかりなくなっていた。儀式めいたことは、今でもそうだが、葬式でなくても大嫌いである。この反骨精神は、どこから来ているのだろうか。
 さて、現実の飲み物は何だろう。子供達は牛乳を大量に飲んで成長した。狼の乳を飲んで生き延びたという修験者の報告もあるが、同じ哺乳類でも異種の乳を飲むと成長に影響が出るという説もある。最近、日本の子供の身長が伸びて、キレ易くなったのは、牛乳のせい?それに対抗してベジタリアンと言うわけではないが、最近は野菜ジュースだ。炭酸入りの清涼飲料は、一時骨が溶けると言われたこともあったりして、子供達にはほとんど飲ませていない。それよりは、スポーツドリンクだろう。医者がきつい勤務の間に疲れを取るのに、点滴の栄養液を飲んだのが始まりとか。梅ジュースとかシソジュースも飲むが、これは季節商品。水を買って飲む時代になっているが、尾瀬で飲んだ甘い味のする湧き水は忘れられない。立山の湧水も無色透明という感じでおいしかった。  

2007年07月15日(日)
 005  うなぎを手掴み
 夏の初め、村の東の外れにある川の蛇行しているところに、流れの内側に石ころだらけの河原が出来る。
 そこの石を転がし砂を掘って、河原を突っ切る小さな流れを作る。棒切れで、地面に線を引く要領で、上流側から掘っていけば、そのうち、水がちょろちょろと流れ始める。たちまち、幅十センチで深さ一・二センチの立派な小川が出来上がる。少しすれば、工事の痕が残る泥水は流れ去り、水が澄んでくる。
 そこから先は、ひたすら待つ。
 運が良ければ、流れに逆らって、ウナギの遡上が始まる。どうして、水量の少ない人工の小川の方を好むのか分からないが、本流では見えているのに手も足も出せないウナギを、この俄か作りの小川で、しかも素手で掴まえられる。
 捕れるのは、「すべ」と呼ぶ、海から遡上している途中の、ドジョウほどの子供だったが、ウナギはウナギだ。  

2007年07月15日(日)
 006  大水が出た
 北の池が切れたというのは、村の拡声器で流れた。
 おそらく、この村に流れてくることはなく、市川の氾濫源にある余所の村に流れて行くだろうと、誰もが安心していた。低い地形に多量の水が流れるので、その村々は壊滅的な状態になるのではと心配されていた。
 ところが予想に反して、水は村を直撃した。後で、洪水に襲われるのを避けるため、だれかが、こちら側の堤防をわざと壊したという噂が流れたが、真偽の程は分からない。
 当時は土間となっていた台所の排水口から水があふれ出た。それから、どんどん水かさを増してくる。流れてくるのではなく、わき出すように、じわじわと真っ黒に濁った泥水が高くなる。どこから出てきたのかと思うほどのゴミの固まりが浮いている。
 インドネシアの津波の映像でも、街中を流れるゴミの量は水面が見えないほど凄まじかったが、あの時の自動車も運んでいくような強い流れは、家の中にはなかった。ただただ、水かさがじわじわと高くなるのを見守るだけだった。
 手で持てる家財道具は2階に上げて、畳を積み上げた。そのころには、家中が泥水だらけという状態になっていた。もうこれ以上高くなると、畳も浸かってしまうというところまできて、しぶしぶという感じで上昇が止まった。
 「えらいこっちゃなあ」、と門の前を通るおじさんが声をかけて行く。腰のあたりまで泥水に浸かっている。裏の方は低い地形が災いして、もっと水かさが高くなり、床上まで浸水したようだ。裏の道の上は流れが速く、危なかった。生きたニワトリや子牛までが流されたりしたようだ。池の大きなフナやコイに混じって、スイカとかウリなどの野菜も流れて、それを拾い集めた人もいたとか。もっとも、下水より汚い流れから拾い上げたのを、どう処分したかは知らない。
 水の出ている間は、気が張りつめて興奮状態だったのが、水が引くと、醒めて気が抜けたような気分だった。水が引いてきた頃、許しが出て、長靴で外に出た。あちこちで泥の跡が水の来た高さを示している。野菜などは泥に埋まっている。大人も、方々見て回って、被害の程度を較べあっていた。
 泥水の退いた後、床下に貯まった大量の泥を掻き出すのは、屈んだ姿勢での大仕事だった。井戸も全部水を汲み出さないとダメで、しばらくは給水車のお世話になった。
 何より困ったことは、それまで1匹も見たことのなかったゴキブリが住み着いたことだと、お袋はよく言っていた。  

2007年07月28日(土)
 007  大ウナギ
 魚を捕る確実な方法は、堰を作って、水を全部汲み出してしまうことである。村の南西を流れる小溝(おみぞ)では水が多いので、せき止める方法がなかった。それが、たまたま、上流で用水路の流れを別の方に流す時があった。
 それでも、十センチを越える深さがあっただろうか。上流に堰を作った時も、まだ下の方は水の中だった。小さな川ではすぐに水が流れ去り、水位が下がる。下でも堰を作った。
 それからが大変だった。汲み出す水の量が多すぎる。バケツで汲み出す間にも、上の堰を補強しなくてはならない。それに、水量が多いので、バケツの中にも魚が入ってきて、その都度入れ物に移す。
 川床に、ほとんど水がなくなると、泥のにおいがするようになる。その時に、それは起こった。川岸には石垣が組んであるが、石と石との隙間から、四・五十センチはあろうかというナマズが出てきた。大暴れするのを、バケツに入れた。
 別のところから、頭を出したのがウナギである。これは、大きすぎた。バケツに入れようがない。上の田んぼに放り上げて、たらいを取りに行った。タライでも、真っ直ぐでは入らず、縁に沿って丸くなっていた。
 このウナギは、油が乗りすぎているので子供は食べたらあかん、ということで、せっかくの蒲焼きは食べさせてもらえなかった。今でも、どんな味がしたのだろうと、残念に思う。食べ物の恨みは怖い。

2007年07月28日(土)
 008  わら仕事
 百姓というのは、とにかく何かしらの仕事をし続けるものだ。
 雨の降る日は、のんびりと骨休めでもすればいいのにと思うが、わら仕事に励む日でもある。
 土間に埋め込んだ石の上に、湿らせたわらを、木のハンマーで打つところから始まる。力を加減して、一束のわらの茎の方から、とんとんとリズミカルに打ちながら、わらの束全体をを回転させて打つ。湿ったわらの新鮮な香りが立つ。徐々に上の穂のところまで打ったら、準備完了だ。
 むしろの上に足を前に放り出すように座り込んで、足の親指で、わらの茎を挟み込む。それから、両方の手に唾をして、もみ合わせるようにして、縄をなう。うまくよりを入れていくと、きれいな縄が、どんどん足の間から、身体の後ろの方に出来上がっていく。わらのつなぎ目をきれいに継ぐのに技術がいる。これも慣れてくると上手くつなぎ目を見えないように出来るようになる。
 おじいさん、おばあさんが土間に座り込んで、ぼそぼそと話をしながら、一日が過ぎていく。
 出来上がった縄は、ていねいな仕事がしてあれば、表面がつるつると光るようで、引っ張っても切れないほど強くなっていた。この縄は、農作業で、わらの袋を閉じるのに使ったりしていた。やがて、手でなう縄は、機械が入ってくるとすたれてしまって、わら仕事もなくなった。  

2007年08月07日(火)
 009  粘土の砂
 庭の土を小さな移植ゴテで掘り起こして、そこから、大きな石や木の葉を除いて、ふるいにかける。ふるい下を、今度は目の小さなふるいで分ける。最初の内は、どうしても粘土の固まりが小さくならず、ふるい作業はうまく行かなかった。
 たまたま、井戸のそばでやっていたので、水をふるいの上からかけながらやると、うまくふるいが使えた。ふるった物は、水で濡れているので、ついでに金だらいに移して、水を流し続けた。米をとぐ要領である。徐々に水が澄んでくる。
 次に、新聞紙に広げて、天日干しをした。
 こうして、1ミリから2ミリ程度の小粒の砂が、まるで魔法のように粘土の中から採れた。透明の小さなビンに移して、コルクの栓をした。長石とか石英などの花崗岩の砕片だった。きらきらとビンの中で輝くのは、見飽きなかった。
 今から思うと、水で流した泥の中にこそ、生物の死骸とか植物の花粉や微生物などの無限の情報を持っていたことが理解できる。  これが、科学的な探索の初めかも知れないと思う。

2007年08月07日(火)
 010  朝露
 8月7日は、朝早く、お日様が高く昇る前に、お盆を持って田んぼに出かけるのだった。活動の始まる前の村のの空気はひんやりとしている。雄町に続く道を曲がると、水田の一角に畝が立ててあって、里芋とか、黍が背丈よりも高くなっている。隣には、西瓜や瓜の実が地表で実っている。
 田んぼの縁に立ち、お盆を水平にして、稲の穂の少し下を撫でるように、切るように動かすと、葉先にごく僅か付いている水滴が、お盆に残される。何度か繰り返すと、傾けて容器に移す。
 もう少し簡単には、里芋の大きな葉の上のころころする水玉を、そのまま、容器に流し込むやり方があるが、これは楽すぎて、ズルをしている気分になる。
 集めた朝露を硯に移して、墨をする。それで、形を整えた色紙に願いことを書く。織り姫様と彦星様が出会えますようにという微笑ましいものから、お小遣いの値上げを期待する現実的なものまで、様々の願い事。一体、いくつの願い事が書かれ、いくつがかなったことだろう。

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