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金曜日は修士論文の一日研究会ということで、第一章にあたる部分を佐藤先生の門下のみなさんに検討していただきました。
毎度のことですが、文章は頭で考えているほどすらすら書けるものではありません。今回提出した原稿も、くどくどしく、堅苦しくなってしまいました。
まだまだ始まったばかりですが、トレーニングが必要だと強く感じました。
研究会の後は暑気払いをしました。佐藤研の先輩方は音楽に通じている方が多く、弦楽器とピアノの演奏会が慣わしのようになっています。ちょっと優雅な飲み会です。
論文の話や、同級生の結婚話など、くつろいだ関係でおしゃべりが出来て楽しかったです。
地震があった土曜日は中野で三宅島観光の計画を立てました。船内泊を含め、4泊5日の予定はほとんどが自由時間です。まぁ、いつものことですが。
初日は三宅小や村役場を訪問し、レンタカーで島内を一周してみようと考えています。2日目以降は釣りやら温泉やら、よしなに。ファミレスで計画を立て終わった後は
アイヌ料理の店へ行き、元気の出るお食事をいただきました。たまたまお隣にアイヌ人の演奏家のグループが来ていて、閉店間近からライブが始まりました。
アイヌ語の歌は何を言っているのかさっぱり分かりませんでしたが、独特の雰囲気がありました。
25日の月曜日は大学院のスポーツ大会がありました。バスケ、フットサル、バトミントン、バレー、ドッヂボールの5種目で、一日かけてコースごとに対戦します。前回のスポーツ大会では
優勝していたので、今回も気合十分だったのですが、他コースの頑張りに屈し、4位になってしまったそうです。僕は全日参加の予定でしたが、お昼前に浅草観光のガイドを仰せつかり、
結局バスケとフットサルしか出られませんでした。
浅草観光とは、東大COEの国際シンポジウムで来日されているスタンフォード大学のリンダ・ハモンド教授をご案内せよということでした。
リンダさんは高校教師の経験もあり、現在は大学と地元の学校とが連携してすすめる教師教育に携わっているそうです。また、困難を抱える学校の建て直し
にも取り組んでいるそうで、僕の修士論文もテーマと同じような興味をもっていらっしゃいました。学部長室で佐藤先生に一万円札を握らされ、「タクシーであっちこっちまわっていい」と言われたので、
久しぶりに贅沢に移動しました。雷門から仲見世を通り、浅草寺の境内を見て、隅田川へ向かいました。時間がなかったのでボートクルーズは出来ませんでしたが、隅田川のほとりを歩きながらたくさんお話をしました。
明日は台風が東京に上陸すると言っています。デューイ勉強会の予定が入っていますが、どうなるのでしょうか。 |
地震の後のアドスタ@中野
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リンダ・ハモンド教授と浅草
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民放では番組タイトルの後に「この番組はご覧のスポンサーの提供でお送りします」と放送されます。
どうせならNHKでも「この番組はご覧の政治家の影響でお送りします」と言ってしまえばいいと思います。
NHKの番組は質が高く、プライドが感じられるので大好きなのですが、不正や汚職の報道を聞くと悲しくなります。
木曜日は大学院の授業の補講を受けた後、大磯へ帰りました。途中、着替えを入れたボストンバッグを車内に置き忘れ、
小田原までとりに行く破目になってしまいました。8時には御茶ノ水を出ていたのですが、実家に着いた頃には日付が変わる寸前でした。
毎年のこの時期、両親は白馬に遊びに行きます。僕も誘われたのですが、前後の予定がハッキリしなかったのでやめておきました。
代わりに妹の留守番を見守る役を承っての帰省です。
30日の土曜日は大磯漁港で「なぎさの祭典」が行われました。この日は昼過ぎから大磯海岸でテユとジェスと海水浴を楽しみました。
暖かい日和で気持ちよかったです。大磯海岸にはかぶと岩という岩場がありますが、日朝韓の3人で「竹島だ〜」とか言って領土問題を口走っていました。
…シビアなネタです。
7時に大磯駅でアドスタ組と待合わせ、一緒に花火を見ました。立川では同日に1万発の花火大会があったそうですが、こちらは20分の1の500発でした。
でも、花火は数よりも近さです。頭の真上に花を咲かせて、大迫力でした。
いよいよ今晩から三宅島へ行ってきます。なので携帯が暫く使えなくなります。噴火から5年目をむかえ、ようやく避難指示解除、観光客の受入れ再開と復興にむけて動き出しました。
しかし、火山ガスの噴出は依然続いていて、生活もなかなか安定しないようです。今回は小学校や役場にも伺う予定でいます。でも、初めての三宅なので、あくまで観光がメインです。楽しまなくっちゃ。
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テユ&ジェスと大磯で海水浴
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今年もなぎさの祭典を楽しみました
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電波圏外の三宅島から帰ってきました。自然の猛々しさとともに、島民のみなさんの
直向な住まいぶりを見て感動三昧な旅となりました。天候に恵まれ、火山ガスも影響はありませんでした。
三宅島には朝の5時に到着しました。船から三宅島が見えたとき、噴火の際に避難してきた子が「あ〜ぁ、みどりがなくなっちゃった」
と一言。確かに、茶色い島でした。高濃度地区では下草こそみどりですが、木々はサルスベリのようにつるつるになっていていました。
火山ガスによる酸性雨が原因だそうです。この酸性雨は、農作物に降ると葉に穴が開いたり、枯らしてしまったりするそうです。
高濃度地区の三池港からつばさ宅へ行く途中には今回の噴火で枯れた木々と、前回の噴火の溶岩とがありました。ほぼ20年に一度は
噴火する雄山ですが、噴火しては復興し、復興しては噴火し、と果てない自然との闘いと対峙しながら生活する苦労を慮ってしまいました。
三宅での初日はアドスタでお世話になった小学校と村役場へ挨拶へ伺いました。半分くらいの教職員の方は避難後に移動されていました。
公用(??)をひと通り済ませた後は湯の浜漁港でぼ〜っと釣りをし、夜はつばさ宅で晩酌をして島の生活の様子をいろいろと聞きました。
6月に再開したという三宅FCが、避難していた先の小学校と練習試合をするというので、二日目の午前中は
三宅小学校でサッカーをしました。お昼はサッカーのみなさんにお邪魔して、大久保浜でバーベキューと海水浴を楽しみました。
夕方には海水浴から上がり、漁港の桟橋から飛込みをしました。5メートルも10メートルもあろうかというところから、勇気を出して飛込むのはとても
緊張しました。最後にはハンドスプリングで飛降りたのですが、壁すれすれで回転し、死ぬ手前でした(汗)。
三日目は湯の浜漁港で釣りをしようと言っていたのですが、予定変更で長太郎池で泳ぐことにしました。台風の影響で
大波とうねりがすごく、池の外側は3メートルをゆうに超える波が押寄せ、これまた死ぬ思いでした。
後で聞いたのですが、長太郎池は噴火の影響で1メートルほど水深が浅くなり、遊泳禁止になっていたそうです。あ〜、生きてて良かった。
長太郎池から上がると、今回のメインイベントとなった漁船での船釣りにいきました。つばさの
お父さんが仕事を早引きして船を出してくださいました。船から見る三宅島もまた格別で、保田さんとつばさパパは並んで最高の一服をしていました。
釣りでは高級魚のアカハタを一人で三匹もつりました。と言っても、僕の腕前ではなく、つばさパパが手取り足取り教えてくれたからですがね。
漁船には一時間半くらい乗せてもらいました。その後は夕飯を食べ、アドスタの5人は羽深先生のお宅へお邪魔しました。先生とは秋川での様子や
今の小学校の様子などをお話し、最後に三宅特産のくさやを食べさせていただきました。くさやは名前どおり臭かったですが、とても口に合いました。
「死ぬかと思った」Part3はこの後の花火でした。10時ごろから大久保浜で始めた花火は、最初はテンションも上がらず線香花火とかをちまちまやっていたのですが、
「ロケット花火を左右にくっつけて同時に飛ばしたらどうなるか」というネタに大盛り上がりしてしまい、あわや負傷者の出兼ねない
危険な遊びを思う存分やってしまいました。結局最後の夜は12時に帰宅と、ご迷惑な方々になってしまいましたが、とても楽しかったです。
三宅島滞在最終日はお土産を買いがてら大路池などを見てまわりました。2時の船だったのですが、「は〜、ここから現実に戻るんだぁ」とため息をつきながら、島を後にしました。
本当に充実した旅行でした。一生の思い出になりました。
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勇気を出して、海へダイブ!!
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長太郎池の大波で所業を流す
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今年も野生体験キャンプへ行ってきました。ブルーシートを抱えて野山へ入って行く過酷なキャンプですが、
今回は4泊5日のうちの4日間は雨という、例年よりも更にハードな条件でした。
バスが茨城県の里美村へ着こうとする頃になると、雨足がいよいよ強くなってきました。
僕の班もバスを降りて徳田から歩いてキャンプ場へ向かう予定でいたのですが、結局全員バスで
サイト入りということになってしまいました。例年だとこの入村ハイクで班員の体力や性格が
把握できるようになっているのですが、出だしから大きなハンデを負うことになりました。
バスでのうのうとサイトに着き、昼ごはんを食べて入村式を済ませると、僕の苦手な竹細工です。
今年も子どもたちを連れてのりひで班にお邪魔し、竹の切り方やらを見学させてもらいました。超適当班指導の始まりです(汗)。
竹細工が終わり、食材やテントの道具を用意すると、初日の野営先である笠石に向けて出発です。途中は
初任者研修で参加していた先生方が二人ついて、大雨の中の山道をフォローしてくださいました。笠石についた頃にはもう
真っ暗で、大雨はやまず、火はおきず…。すでに「もう来年は来ない」と言い出す子もいて、すべてが予定通りでした(泣)。
笠石での夜は、晴れていると空一面に星が見えてとても綺麗なのですが、雨天と曇天の下では空を見上げる気も起こりません。
仕方がないので、半分の子が寝た頃に、起きている子たちを誘ってナイトハイクへ行きました。昼間なら大した距離でもないのですが、
真っ暗な中でライトひとつのナイトハイクは肝試しのようでした。「笠石」という地名の由来となっている石まで歩き、
怖さのあまり折り返してきました。思い出にはなったかな。
二日目は笠石で朝食を摂り、予定を変更して昼前にサイトへ向かいました。サイトでは暫しの休憩も惜しんでまた野営へ向けて
出発です。二日目の晩は養鱒場近くにある東山林道の脇道で野宿です。この時は参加者経験のある女子高生リーダー二人が
手伝いについて来てくれました。蜂だのアブだの毛虫だの、害虫だらけの山の中でしたが、初日よりもちょっと上品なテントが出来ました。
子どもたちは「狭い」「かゆい」「臭い」と文句を言いながらも、疲れ果ててすぐに寝入ってしまいました。
三日目は午前中に崖のぼりと鱒つかみをする予定でしたが、どちらも大雨のため中止でした。とぼとぼと
牧場の脇を通り、「つまんないなぁ〜」と漏らしながら昼前にサイトへ帰還しました。
この日はやがも班と合同で料理交換をする予定でした。ところが、いつまで経っても火がつかない我が班は、
もらうものだけもらって、お返しが間に合いませんでした。やがも班は早々に野営地へ向かってしまったので、4日目の夕食にチキンカレーを
あげることにしました。この晩は三鈷室山を登頂し、そこで野営をする予定でしたが、大雨注意報が出ているということで遠出の野宿は
禁止になりました。また、山登りも時間を遅らせるようにという指示が出ました。そこで、明け方3時起き、4時出発で三鈷室へ向かうことに
しました。辛いことばかりで大変だねぇ、かんぺい班。
早めの夕食と近場での野宿で体力を蓄え、4日目の明け方から山へ向かいました。前夜は頭が痛くなる子やせきをする子
もいて、かなり不安でした。出発してすぐに、腹痛を訴える子が出ました。体力も気力も限界なので当然ですが。
この子にペースを合わせながら、のろのろと歩き続けました。サイトを出発してから5時間弱が経った頃、ようやく三鈷室山の頂上へ
着きました。あたりは完全に明るくなり、晴れ間も見えて感動的でした。「辛い経験を一度でも」という意味での
三鈷室登山だと思うのですが、慎ましく生活してきた我が班の子たちには一番楽しい思い出になってしまいました。
山頂では本間班の受け売りでレモンに砂糖をかけて吸いました。具合の悪かった子たちも完全回復で、
帰り道もかなりのハイスピードで歩き通しました。
サイトへ帰ると、2時間ほどの休憩の後にチキンカレー作りに取り掛かりました。強火でじっくり煮込んだカレーは、
おいしいのかどうかは分かりませんが、とても温まりました。
そして夜はキャンプファイヤーです。山からの帰り道であれほど打ち合わせをしていたのに…。
班のスタンツは班指導者若干2名を除き、大滑り。まぁ、仕方ないさね。というわけで、うちの班の日記には
キャンプファイヤーが登場しません。悲しすぎる。
最後の夜はブルーシート1枚、トラロープ1本、ペグ2本を各人に持たせ、一人ひとつのテントを張らせました。
子どもたちはみんなで寝て楽しい最後の晩を希望していましたが、却下しました。今回は最後まで「辛い!
厳しい!」で通そうと考えていたからです。子どもたちは何だかんだと言って、結局寝入るまでに2秒とかからない有様でした。
山に登って、カレー作って、ファイヤーもやれば疲れます。
子どもたちは翌朝の目覚めもよく、寝坊した僕を起してくれました。「ソロビバークもなかなか良いもんだね」と
言ってくれて、少し救われた気分にもなりました。サイトに帰って器材返還の際には、6回もやり直しをさせられるなど、
にっちもさっち進んでいませんでしたが、無事に下界へ帰ってくることが出来ました。
来年の進路次第では野生に参加できるのも今回で最後になってしまうので、無理に無茶を被せながら
活動してしまいました。病人が出なかったのは、いつも救いの手を差し伸べる本部と、周りの班指導員のみなさんのお蔭様でこざいます。
子どもたちはチームワークもばっちしで、自分の領分を積極的に開拓してくれました。疲れ果ててしまいましたが、
悔いの残らないキャンプになりました。
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牧歌的な朝の空気です
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疲れ果てたら所構わず
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続いてですが、定時通報もついに第100報を数えてしまいました。いつも読んでくださる方々、どうも
ありがとうございます。記念にどうの、ということは
時間的に余裕が無いので今回は出来ませんが、「こち亀」を追いかける気分で今後もたらたらと書いていきたいと思います。
疲労困憊で野生体験キャンプから帰宅し、臭くなった衣服を洗濯して寝入ると、良平とション君が帰ってきました。
ション君は13日から我が家へ泊まっています。僕がキャンプに行ってしまうので、大阪から良平を呼び寄せて相手をするように
お願いしていました。第96報の頃に浅草へお連れしたスタンフォード大学の教育学者、リンダ・ダーリン・ハモンド教授の息子さんで、
ハーバード大学で社会学と日本語を勉強しているのがション君です。今回は2ヶ月間北海道で日本語の研修に参加し、帰国の
前に東京観光をしたいというので、ご招待しました。
ションは日本語がペラペラで、街行く人々もびっくりして振り返るほどです。良平がいる間は3人でお茶の水の本屋に
行ったり、徹夜でカラオケをしたりと、東京人的学生ライフを楽しみました。良平は16日の朝に大阪へ帰りましたが、
その後は東大の御殿下運動場でジムやバスケをしたり、買い物に出かけて夕飯を作ったりしました。
「北海道にいるときよりも楽しかった」と言ってくれましたが、僕が一番楽しかったのは晩酌をしながらだらだらと
話をしているときでした。日米の政治の話、文化や言葉の話、地震の話、カリフォルニアの話、そして学生生活の話。
国や環境は違っても、考えていることは同じだと思いました。ションのお母さんもそうでしたが、彼らの興味の
広さと好奇心の強さは人並みはずれています。そしてきちんと努力をするところもエライ。見習うところがたくさんありました。
ションは18日の昼過ぎにアメリカへ帰って行きました。楽しい思い出と、心温まるメッセージ、そして忘れ物のパンツを残して…。
17日は昼前から亮太と後楽園へ遊びに行きました。亮太とは知り合って以来メールで近況を連絡し合っていますが、
直接会うのはおよそ1年ぶりです。お互いにちょっと緊張しながらでしたが、絶叫系ジェットコースターに乗った後は
面白いことばかりでした。ラクーアの雑貨屋ではお尻の穴から出てくるトイレットペーパー・ホルダーを見つけました。
雑貨屋はアイデア勝負で本当に面白いことを考えます。お昼をシガナイそば屋で済ませ、午後はアニメ「NARUTO」の
特別イベントへ行きました。「NARUTO」はよく目にしますが、漫画を読んだことはなかったので、イベントの
趣旨も良く分かりませんでした。でも、忍を結ぶ手の組み方は興味深かったです。「ひつじの忍」とかはまるで
「カンチョウの忍」でした(笑)。
イベント会場を後にして、「次はおばけ屋敷だ!!」と誘ったのですが、亮太はまだ忍が足りないのか、結局観覧車になりました。
観覧車では細身のおじさんが「ハッピ〜、行ってらっしゃいませ〜!!」とお見送りをしてくれて、大爆笑でした。
6時からは東京ドームで北海道日本ハムvs東北楽天の試合を観戦しました。楽天はつい最近、初年度の経常収支がトントンになるという
見込みを発表しましたが、仰るとおり、人の入りもまずまずでした。試合内容にあまり関心がない二人は、
観客席を一周し、5回裏で気が済んで帰りました。帰り際にはお母様と3人で少しお茶をしました。
昨日と一昨日は江戸川の小学校でプール指導をし、久しぶりにお会いした先生方と飲みに行きました。
去年教えた子どもたちは、少し大きく、たくましくなっていてました。
特に6年生の子たちは、プール指導のお手伝いをしたり、下級生の面倒を見たりと、とても頼もしくなっていました。
日常の先生方の努力は、たまに見に行くと大きな成長になって映るのでうれしいです。
明日は東京都の教員採用試験です。これから面接試験に必要な模擬授業の指導案を書かなければなりません。
今年は3年生の理科「くもの糸」で攻めたいと思います。は〜、どきどきです。
そして、良平の進路が決りました。青年海外協力隊でモンゴルの水泳オリンピックチームを指導するそうです。
「水泳いのちっ!!」で生きてきた彼ですから、おめでたいことこの上ないです。いつもは僕が先に進路が決るのですが、
良平が先んじているのは良寛史上初めてです。よかった、あ〜よかった。
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亮太とわくわく後楽園へ
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アメリカ人の合言葉は「リファウンド!!」
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