定時通報

定時通報

第81報 2004年12月27日(月)
 まずは喪中のお知らせです。定時通報でも書きましたが、先月中旬に父方の祖父が亡くなりました。 19日の日曜日は「三十五日」とかいう法要で再び姫路へ行ってきました。そんなこんなで、今回の新年の ご挨拶はご遠慮させていただきたいと思います。年賀状が返ってこなくても恨まないでください。 なお、お子ちゃまと外国人の方は特例です。
 週末になると風邪がぶり返す、という生活も先週まででひと段落しました。なにせ、忙しすぎです。 16日はダニエルとミンジョンが我が家へ遊びに来ました。ダニエルはインターネット上でのコミュニケーション 言語に着目しているそうで、東大の総合図書館を案内しました。17日は小学校勤務の後、若手の先生方と 「桃鉄&キムチ鍋」パーティをしました。職員室でひょんなことから「高校受験の地理は桃鉄でクリアした」という 話題になり、久しぶりにみんなで遊びたいね、という展開になりました。その話を受けて、今回の企画になりました。 桃鉄は3ペアの6人で対戦しましたが、堅実に物件を買い続け、奇跡的な幸運に恵まれた僕のペアが優勝しました。めでたし、めでたし。
 19日は上述のとおり日帰りで姫路へ行き、20日から22日までは志水先生の集中講義でした。「学校臨床社会学」というタイトルでしたが、 この学問分野の限界についても語ってくださり、有意義な授業でした。22日は講義の後、勤務先の小学校の忘年会に参加しました。豪華な式場をお借りして、 ビンゴなどをして楽しみました。12月までの契約でしたので、江戸川のこの学校での勤務は終わりになります。短期でしたが、先生方や子どもたちに 大変親しくしていただいて、楽しく働くことができました。
 23日には良平が年末年始の帰省のために上京し、我が家に一泊していきました。この晩は塩野さんと学部時代に家庭教師をしていた子を連れ立って、 矢井田瞳の東京ドームライブへ出かけました。終わりかな、と思ったら、アンコールが2回も設定されていて、複雑な満足感を味わってきました。
 良平は翌日に大磯へ帰りました。両親に「親孝行」というタイトルで劇団四季のミュージカル「CATS」のペアチケットを贈ったのですが、 妹の面倒を看る人間がいない、ということで、良平に協力してもらいました。本来なら就職していて、初任給で孝行するべき年頃なのですが、 それは叶わないので、せめてできる範囲での恩返しでした。
 その日(24日)はわかばのみなさんと「闇鍋会」をやりました。方々の独り身のみなさんが集まれば、 なんとか楽しい夜になるものです。おいしいクリスマスケーキを2ついただき、寄せ鍋とプレゼント交換をしました。
 遊んでばかり、呑んでばかりの日々ですが、お勉強の方も少しだけニュースがあります。僕の卒論を 早く世に出さないと他の人にお株を奪われてしまうのではないか、ということで、信州大と高知大の先生方が 論文投稿の話を持ってきてくださいました。僕の指導教官の佐藤先生は、修士のうちに論文を公表することは、 批判される材料を作ってしまう可能性が高いため、あまり前向きではありません。そこで、お二人の先生方が お伺いを立ててくださり、「現地で見聞きしてきた確かなことだから」ということで、許可が出ました。 汎バルト海・スカンジナビア国際学会の学会誌ということで、これが初論文となります。
 インドネシアのデリルがメッセンジャーから消えているのですが、地震の影響ではないかと心配です。 今年は天災の多い年でした。来年こそは、と毎年思います。

それではみなさま、良い年をお迎えください。

良平、お塩と矢井田瞳のドームライブへ
良平が帰省のために上京しました
2種類のケーキに舌鼓を打つ
わかばのクリスマスパーティ
第82報 2005年01月09日(日)

Gott Nytt Ar!!! 今年もよろしくお願いします。

 インドネシアのデリルはジャカルタにいて無傷でした。スウェーデン人の教え子トムも、地震の時に はタイのプーケットにいたそうですが、メッセンジャーで無事を知らせてきました。一安心。15万人もの 死者を出しているとは、本当に恐ろく、悲しい出来事です。主導権争いなどは別として、復旧・復興に関わる日本の 国際貢献に大いに期待します。
 年末は東京にも雪が降りました。暖冬と言われながらも、数日おきに寒波がやってきます。雪はサーモグラフィーの ように、忠実に温度差を測って積もっているようでした。我が家の前の大通りは路面はおろか、イチョウの枝葉にも積もって いませんでしたが、一歩東大の構内へ入ると、薄らと積もった銀世界が広がっていました。
 29日は学部時代の寮生仲間と集まって、忘年会をしました。フランスへサッカー留学していた棟ちゃんが帰国したので、 お祝いを兼ねています。集まったメンバーは教員や消防士など、それぞれ社会人として働き始めています。職場のこと、ボーナスのこと、 初任者研修のことなど、話は尽きませんでした。苦労も多いようですが、充実感も伝わってきて、うらやましいと思いました。
 30日は大磯へ帰省し、小中学校の同窓会に参加しました。前回の忘年会や成人式で会った人もいますが、中には中学、高校以来 という人もいました。地元に残っている人たちは集まって遊んだりしているようですが、ほんのり近くてほんのり遠い東京からは なかなか帰る機会がありません。中学のときに柔道部で一緒で、高校のクラスも同じだった福田くんとは、当時のことや 今の状況についてたくさん話しました。彼は会計士を目指す夢追い人になっていました。
 大晦日は大掃除もそこそこに、そばを食べて、紅白を見て、晩酌を賜る、という体でした。年が変わった頃から始まった晩酌では、 お父さんとお母さんの馴れ初めの話を初めて本格的に聞きました。お父さんは、ラブレターを隔日のペースで送ったり、 文系のお母さんにベクトルの喩えを使ったりと、空回りしていた様子でした。お母さんはお母さんで、当時の話を無理やり美化して 記憶している向きもあり、小さい頃から僕たちが吹き込まれてきたことは洗脳だったかもしれない、ということに気がつきました。 と、茶化して書きますが、真面目な二人が出会うべくして出会ったという、運命のようなものを感じさせられました。大きな夫婦喧嘩もなく、 長く仲良く暮らせているわけで、めでたしめでたしです。お父さんはおじいちゃんが亡くなってから、「そろそろ家系図を 整理しないとなぁ」と言っていますが、息子としてはむしろ「馴れ初め話を整理しないとなぁ」です(笑)。
 正月はおせち料理をいただき、近所をお散歩して、テレビを見て終わりです。翌日はテニスをして、テレビを見て終わり。なんと 平和な正月でしょう。今年は修士論文を書く年でもあり、荒天が予想されますが、ゆっくりとした出足を踏めてよかったです。
 3日には早々に東京に戻り、家庭教師やら授業の打ち合わせやら、勉強会やらが始まりました。18日から1週間はアメリカ、帰国して 翌週は新潟、新潟から帰京した翌々日から2ヶ月間ヨーロッパと、スケジュールが埋まっています。ヨーロッパから帰国する4月には 教員採用試験のローテーションが始まり、6月には修士論文の中間発表です。
 そういえば中学生の頃は、伊能忠敬のような人間になりたいと考えていたことを思い出しました。 方々から反対され、無意味だと揶揄されながらも、堅実に志を貫いた姿に憧れたものです。余生を未来の ためにつかう、その姿勢を、一年の目標にしたいと思います。今年も方々にご迷惑をおかけしながら、砕氷船のように 進んで行くことになると思います。災いが降ってきた際には、どうかお手をお貸しくださいませ。
「似てきた」と言う方と「違ってきた」と言う方といらっしゃいますが
腹違いの双子は可能か?
なんとなく波乱の年になりそうです
三が日はゆっくりできました
第83報 2005年01月28日(金)
 今年の大学院の授業はパペットによる事例紹介から始まりました。この日の菊池ゼミでは、現場レベルと国政レベルの教育改革の2つがトピックとして挙がりましたが、どちらも根本的な矛盾を抱えながら取り組んでいるという困難さが共有されました。矛盾は生活の中から必ず生まれるものだとは思いますが、それを公に問う機会が制限されるような風土は問題視されて然るべきだと考えます。日本の教育はどこへ向かおうとしているのでしょうか。
 18日からの1週間はアメリカへ行ってきました。渡米直前はとても忙しく、ガチャガチャ、ドタドタとしていて、結局準備は当日になってから取り掛かる始末でした。飛行機は定時に離発着し、1年ぶりに米国の土を踏むことができました。今回は、僕が高校1年生のときに初めて出た海外の地、ウィスコンシン州のラシンと、去年も1週間を過ごしたカリフォルニア州サンノゼへ3日半ずつ滞在しました。
 8年ぶりとなるラシンは、倒産、撤退する企業が相次いでいて、売地などの看板が目立ちました。2日目はFine Arts小学校の5年生の授業を一日見学し、3日目はMcKinley中学校を訪問しました。2つの学校を見ても、やはり教員の質の悪さが印象的でした。話し合っている題目や教材は優れて一般的なのですが、それを生かしきれていないという状況でした。また、子どもたちの出自が安定している地域の学校でしたが、それに甘んじている教師も見受けられました。日本でも教員免許の更新制導入や教師の専門職大学院の話題が出ていますが、アメリカを見習うのはいかがなものかと思ってしまいます。
 4日目は空路でカリフォルニアへ移動し、夕方にお父さんと合流しました。お父さんはこの日からレーザー関連の学会があるというので、ホテルに相部屋させてもらいました。ホテルに着いてしばらくしてから、スーパーへ朝食を買出しに行き、メキシカンのファーストフードでブリットーという巻物を食べて帰ってきました。お父さんは時差ぼけで苦しんでいました。
 5日目はひとりでサンフランシスコへ行き、一通り買い物を済ませた後に、自転車を借りてゴールデンゲートブリッジ(GGB)を渡ってきました。GGBを渡った後は、フェリーでアルカトラスやファイナンシャル・ディストリクトを眺めながら出発地へ戻りました。快晴な上に、観光客も比較的少なく、最高にさわやかなサイクリングでした。
 帰国した翌日の水曜日は、さいたま市の小学校での勤務最終日でした。朝自習の時間から子どもたちがお別れ会の準備をしてくれていて、一日がおまつりムードでした。国語では「きゅうこんのめがでた」という詩を学習したのですが、子どもたちの鑑賞のすばらしさにまたも感激してしまいました。球根の芽が力強く土を突き破る様子、そして天空がそれを暖かく包み込む様子が具体的にも抽象的にもありありと捉えられていました。教師用指導書には読解の手立てやら予想される児童の反応やらが書いてあるのですが、このクラスの子どもたちの読み取りは遥かに独創的で、深みのあるものでした。授業が終わって、隣のクラスの先生とお話をしたところ、そちらでも充実した読み込みをしていました。隣のクラスでは、ノートにずいぶん面白い解釈が書かれていたようで、僕もノートを執らせれば良かったなぁ、と反省しました。幼稚園や1年生からきっちりと文章に向かう姿勢が養われているのでしょう。子どもたちの感性には毎時間驚かされます。
 江戸川もさいたまも勤務が終わり、これで今年度の公務はお終いです。来年度は修士論文の執筆もあり、再び関われるかどうかは不透明ですが、チャンスがある限り教室へお邪魔したいと思っています。熱心に指導されている先生方にも、脱帽と感謝です。
赤いのに「金門橋」
GGBを背景に、Say Cheese!
5時間目はお別れ会でした
心のこもったおもてなし
第84報 2005年02月13日(日)
                                  (2005年02月18日掲載)
 スイスのダヴォスという街に来ています。渡米の直前もそうでしたが、今回も出国前日は慌しく部屋の片付けに追われ、当日の朝に起きてから荷詰めをしました。そのため、ほとんど寝ずに家を出る始末で、変圧器もお土産も持ち忘れてしまいました。ともあれ、飛行機に間に合ったので良かったですが。
 成田空港はとても混んでいて、出国カウンターに長蛇の列が出来ていました。イライラしながら順番を待っていたのですが、そのお陰で、飛行機がオーバーブッキングになり、ビジネスクラスにアップグレードされました。幸先が良過ぎで、この後が心配です。ビジネスクラスでは、牛フィレだとかフォアグラだとか、美味しい料理やワインをとにかくたくさんいただきました。
 時間を巻き戻して、アメリカからの帰国後の話になります。1月30日は代々木体育館のスケートリンクが40年間続けてきた一般公開を、この日で打ち切るということで、道産子の同級生と勇んで行ってきました。ヤフーニュースや読売新聞にも出ていたようで、ものすごい人ごみでした。スケートの後は表参道などを歩きました。この日は大学院のクラスで、バレーボールの練習があったので、一度家に帰った後、中学校の体育館へ再び出かけました。
 4日の金曜日は練習したバレーボールの本番、教育学研究科のスポーツ大会でした。授業でご一緒した方とは久しぶりに会ったりして、和やかに闘志をぶつけ合いました。我が学教チームはバレーボールで全勝、フットサルや卓球、バトミントンでも健闘し、見事総合優勝しました。それにしても、日ごろの運動不足が身体に堪えました。
 翌5日からは勤務していた江戸川の小学校の宿泊行事に同行してきました。3泊4日でしたが、子どもたちは普段の顔と違った面を見せて、日に日に変化していく様子が見られました。ノルディックスキーとアルペンスキーに取り組みましたが、子どもたちの上達の早さにはびっくりでした。
 9日は佐藤研の指導会でした。3ヶ月ぶりくらいの指導会で、「旅立つ前には修論のテーマを決めておきなさい」と言われていたのですが、結局この日もボスを満足させることは出来ませんでした。2ヶ月間の欧州旅行中に楽しいアイデアをたくさん仕入れたいと思います。
 出発前夜はアドスタの3人と新宿で会いました。三宅の避難指示が解除され、ニュースが色めき立っています。去年の梅雨明け頃に三宅村教育委員会にお願いしていた重要文書が先週届きました。帰島準備で忙しい時期に、本当に骨折りをさせてしまいました。帰国したらじっくり読みたいと思います。
子どもたちにも先生方にとっても大きな4日間でした
雪を見ると掘り始める子たち
疲れは飲んで晴らします
毎回チグハグな指導会の余波
第85報 2005年02月19日(土)
                                  (2005年02月20日掲載)
 ようやくスウェーデンのヨテボリに到着しました。チューリッヒからヨテボリへはパリ乗継ぎで来ましたが、 降雪のために飛行機がチューリッヒを離陸するのが1時間遅れ、パリに着いた頃にはヨテボリ行きの飛行機は行ってしまっていました。 「またか…」とつぶやきながらトランスファー・デスクへ行くと、翌日のフライトとホテルを手配してくれました。ユースホステルのような安ホテルで 、学校の旅行できた子どもたちが夜中まで廊下を走り回っていました。ともあれ、成田からはビジネスクラスで、パリでは1泊付きと、 10万円の格安航空券は過剰なサービスをしてくれています。
 スイスでは2年前にもお世話になったマヌエルと、彼のお兄さんの友達のケビンと一緒に5日間を過ごしました。 ケビンのおじいさんは保険会社チューリッヒのジェネラル・マネージャーだったそうで、 普通のお金持ちです。自宅兼別荘が3つあるそうで、今回はそのなかのダヴォスのアパートをわれわれ小悪魔3人組に貸してくださいました。
 初日はチューリッヒ空港で夕方5時に待合せ、一度マヌエルの家へ荷物を取りに帰った後、電車でダヴォスへ向かいました。乗換失敗などの アクシデントもあり、アパートに着いた頃には日付が変わりかけていました。
 翌日はあまり良い天気ではなかったのですが、昼ごろからスキー板を借りに行き、夕方まで思いっきり滑りました。 つい先週には新潟で、去年もフィンランドでスキーをしましたが、本場スイスのスキーはレベルが違いました。 そもそも、切りだった山の、すさまじい斜面を利用したゲレンデは、こけるか折れるかの二者択一を迫っているようでした。 3時間ほどの滑走のうち、リフトには5,6回乗りましたが、毎回恐怖とのたたかいでした。
 悪天候のため、結局スキーはこの日しか出来ませんでした。残りの日々は、スケートに行ったり、池の周りを歩いたり、 市街を散策したり、ロード・オブ・ザ・リングのDVDを見たりと、のんびり過ごしました。
 夕食は毎回アパートで料理をしました。2日目は具沢山のハンバーガー、3日目はスイス名物フォンデュ、4日目はハムとチーズの挟み揚げ、最後の晩餐は白身魚のムニエルでした。 どれも料理はまともに出来ましたが、まともな会話はひとつもありませんでした(笑)
 最後の夜はアパートを貸してくれたおじいさんとおばあさんに宛てて鶴を折りました。 気に入ってくれると嬉しいです。4月の末から5月の始め頃まで、今度はケビンが東京へ 遊びに来ます。ホストも楽しみです。
大きくなったマヌエルは壊れていました
リゾート気分はほとんど感じず…
降雪が続き、結局1日しかスキーは出来ませんでした
今度はケビンが来日する番です

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