定時通報

第131報 2007年01月30日(火)
 「時差との戦い」月間 > 写真
 今月は「時差との戦い」月間です。4日にストックホルムからチューリッヒ経由で東京へ帰りました。そして、20日から28日はバンクーバー経由でカリフォルニアへ行ってきました。 このところ時差ぼけも人並みに患うようになってきて、調節するのが大変です。
 今年のヨーロッパは異常に暖かかったので、東京に着いたときには寒く感じました。本郷に帰ってすぐに佐藤先生に挨拶に行ったところ、「フィンランドに行くぞ」と急なお誘いを受けました。無理ですたい、いま帰ってきたばっかりなのに。 そして、メールを開いてみれば知り合いの研究者から「月末にストックホルムに行きます。会えますか?」との連絡が入っていました。何でこのタイミングに帰ってきちゃったんだろう、残念。
 東京では牛丼を食べ、カラオケに行き、居酒屋で念願の納豆オムレツを頼み、みんなで鍋を囲い、長風呂に浸かり、タモリ倶楽部を見て、とやりたい放題です。なんていい国なんでしょう、日本って。 新年会で久しぶりにみんなに会って、やっぱり母国だなぁと感じました。
 束の間の楽園生活の後は小学校のウェインタースクールで新潟へ行ってきました。出稼ぎです。アクシデントがつきものの宿泊行事ですが、今年の子どもたちは驚くほど素直で「育ちの良い」子たちでした。 しつけって大切だなぁと改めて考えました。ベテランの先生方がとても魅力的で、締めるところはきちんと締めて、でも創造性を阻まない絶妙なバランスでした。ここでも何度か書いていますが、やっぱりベテランの先生方のこういう良さを 若い先生たちに上手く伝えていくことが今の課題なのだと思います。いい先生は周りの人を幸せにします。
 新潟から帰った次の日は早朝から長野へ。信州大学の教員養成の授業とフォーラムを見せていただきました。 「リフレクションにはコミュニティが欠かせない!」とまた力んでしまいました。長野で一泊し、東京に帰った翌日はウェンガーの勉強会をしました。 スウェーデンでひとり悶々と読んでいたときは気がつかなかったたくさんの視点が知れてとても有意義でした。僕は知識は関係の中でしか現れないという考えなのですが、なるほど、 記憶喪失の人たちの例をとると「知識を持っている」という表現も成り立つのかもしれないと再考しているところです。
 そして、カリフォルニアへ。今回はアメリカに授業研究を導入したミルズ大学のキャサリン・ルイス先生にコーディネートしていただき、佐藤研の先輩と一緒に教員養成の授業や授業研究の会に参加させていただきました。 授業研究の会では先生方の熱意が会場に溢れていて、本当に楽しそうでした。これまでにアメリカで見た授業というのは、教師中心の形式的なものばかりで、多くはドリル学習だったのですが、この日に見た授業は とても創造的でした。アメリカにもがんばっている先生がいるんだと知ってとても元気づけられました。僕もがんばらないと。
 ジプシーもびっくりな移動っぷりです。この一月、一冊も本を読んでいません。そして課題は山積み。2月は鈴鹿のおばあちゃんちへ行き、スイスでスキーをしてからスウェーデンに帰ります。自転を無視した生活がまだまだ続きます。
アドスタ新年会はあんこう鍋だったはず
日本へ一時帰国
UCバークレーにも行きました
そしてカリフォルニアへ

第132報 2007年02月25日(日)
 SAFETY FIRST > 写真
 東京生活の後半はとても充実していました。勉強会をしたり、研究室の人と議論をしたり、佐藤先生のゼミに参加したりと、勉強の面では忙しすぎるくらいでした。 そして、その寸暇を惜しんでカラオケに行ったり、ボーリングに行ったりもしました。日本でできることは全部しておかないともったいないという感じです。
 2月の1日2日は鈴鹿の祖父母の家へ泊まりに行きました。鈴鹿を訪れるのは中学か高校生の頃以来のことだと思います。小僧寿しがなくなっていたり、新しい家が建っていたりしましたが、懐かしい雰囲気を感じました。 お母さんが夕方に合流しました。夜ごはんはすき焼きをいただき、翌朝は納豆とのりの佃煮など、純和風家庭料理に癒されてきました。おじいちゃんとおばあちゃんは4月に北欧にいらっしゃるので、またすぐにお会いします。
 鈴鹿の帰りはお父さんの寮に泊まりました。目的はボリューム満点の海鮮丼と蒲郡のアウトレットです。アウトレットではお母さんと明子の服を見繕い、僕もシャツを買ってもらいました。
 東京に帰って、週末は三宅の子たちが遊びに来ました。土曜日の夜は徹夜でモノポリーをし、日曜日は亮太も加わって都内某所の電気街と東京ドームへ行きました。 高校2年生の彼らは、そろそろ進路のことも考える時期なので、受験やら就職やらの話も出てきました。全入時代とはいえ、大変です。
 8日には成田を発ち、スイスへ向かいました。チューリッヒでは去年ロンドンで知り合ったレオと飲みました。レオは僕と同じくらいの年なのにクレディ・スイスのCFOとして働く超エリートです。 なのに、物腰も柔らかく、とてもお人好しなのです。やっぱり、できる人は違うのかな。
 10日からはいよいよスキー・ホリデーです。今回はレンチェルハイデというところへ行きました。前回滑ったダボスの裏側です。マヌエルとその友達のシュドゥル、ティモの4人でチューリッヒを発ち、現地でマヌエルのいとこご一行様と合流です。 高校生集団の若さにはもう敵いません。初日は二日酔いのためひとりユースでお休み。二日目からようやく滑り始めたのですが、アルプスで鍛えられた現地人にはついていけようもなく、リフトから落ちるは、雪山に突っ込むは、深雪に足をとられて身動きができなくなるは、と。とりあえず考えうるすべての愚行はこなしてきました。 コースがあるところでも53度とかの傾斜が平気であるのですが、さらにマヌエルたちは道なき道を下り、断崖絶壁を真っ直ぐ降りていくのです。でも、合言葉は"SAFETY FIRST"(「安全第一」)。あまりに転びまくるので、終いに僕は「スノー・ダイビング」という新しいスポーツを開発するに至りました。 次からスイスでスキーをするときには、レベルを考えておかないといけません。
 スキー・スノーボードの合間や夜は、ともかく飲みまくっていました。スイスではアルコール解禁の年齢が若いので、高校生でも合法的に飲めるのです。まだ飲みなれていない若造な上、気圧の薄い高山なので酔いが回るのが早いのです。結果、泥酔して道々のポールを倒して周ったり、ユースで暴れまくったりしていました。 ユースの隣の部屋ではマリファナを吸うグループが泊まっていて、夜な夜な高らかな笑い声が聞こえてきました。スイスでは今や10歳、11歳の子どもでも麻薬をやっているそうで、乱れが著しいそうです。いかん、いかん。
 いろいろあったスキー・ホリデーから帰って、ウプサラに着くと、そこは白銀の世界でした。氷点下19度なんて時期が続いたそうで、空気中にはダイアモンドダストが舞っていました。 帽子をかぶっても耳が凍りそうだし、家に入ると鼻水が止まりません。
 さぁ、留学生活を再開するぞ、と思ったら、翌週はまるまるスポーツ休みで学校はお休みでした。 暇だなぁと思ってメッセンジャーをしていたら、ヨテボリはもう休みが明けているとのことで、急遽航空券を手配してヨテボリへ。学校を見学したり、友達と会ったり、楽しい小旅行をしてきました。
 今週は信州大学ご一行様がウプサラにいらっしゃいます。
学教うたすキッズの舞台
教育学部音楽会
若さに負けました
アルプスでスキー・ホリデー

第133報 2007年03月17日(土)
 フィンランド週間 > 写真
 3月に入り、一気に春らしく感じるようになりました。積み上げられていた路肩の雪は9度、10度という暖かさで瞬く間に融け、自転車も随分乗りやすくなりました。
 1日からはお待ちかねの信州大学ご一行様がウプサラにいらっしゃり、2つの公立学校を見て回りました。「人間は差異しか認識できない」というのは僕の物事の捉え方ですが、スウェーデンにどっぷり浸かってしまうと今まで見えていたものが見えなくなってしまうことが良くあります。 海外に頻繁に出かけてはいるものの、それでもこの傾向は抑え難いものです。信州大学のご一行様は日本の教育現場に近しい方々で、彼らのスウェーデンの学校見学の感想を聞いてまた初心に気づかされた思いがしました。 それと同時に、これまでの滞在期間で自分の学校の捉え方が大きく変わってきたのだということにも気づかされました。とてもいいリフレクションになりました。
 スウェーデンの短期滞在の後、ご一行様に連れ立ってフィンランドのユバスキュラへ向かいました。去年の信大のシンポジウムにお招きしたイルメリ先生にお願いして、大学付属学校の見学をアレンジしていただきました。 ユバスキュラ大付属はつい最近のNHKの番組にも取り上げられたところで、現在話題沸騰中です。僕たちが滞在していた2日間にも日本人訪問者が3組も来ていました。こんなに押し寄せたら、本来業務に支障が出てしまうのではないかと心配するほどです。
 ただ、ユバスキュラという土地は研究上とても面白い場所であると僕は思っています。一度信大のワークショップでも発表したのですが、フィンランドは国民国家の典型であると思います。それは、隣の大国スウェーデンとロシアによる 占領と歴史を抱え、その後も常に脅威にさらされてきたという背景の上に成り立っています。折りしも、ユバスキュラ大学付属ができたのはフィン族の文化的アイデンティティの高揚を見た時代と一致し、学校設立の目的も「フィンランド語による教授ができる先生を 全国に供給すること」にあったそうです。つまり、ユバスキュラ大学付属学校は、それまで国家としてのアイデンティティを持ち得なかった地域を、フィンランドという国として枠付けをするために生まれたのです。 隣国の脅威にさらされてきたフィンランドにとって、教育は国の統一の要であった訳です。よくよくPISAの結果を見てみると、国民国家的な国が上位にずらりと並んでいることに気がつきます。日本、オランダ、韓国、フィンランド、スイス…。
 また、日本で信教されているようなフィンランドの「先進的な」教育方法などというのは霞でしかなく、作られた言説だと僕は考えています。フィンランドは1960年に行われた最初の国際学力調査のときから、日本とともに世界のトップにありました。 このことからも、90年代の改革がフィンランドの「奇跡」を起こしたという説は疑わしいものになります。また、実際にフィンランドの公立学校を訪れてみれば、その古典的な教授方法に驚きを覚えるでしょう。 つまり、直近の改革だけがフィンランドの教育力を支えているのではなく、国家の教育としての伝統的な礎が支えているのです。そして、かつてフィンランド語圏の中央に位置したユバスキュラが現在のなお教育の中心地であることを鑑みると、この異端な考えの確信がさらに深まるのです。 難しくなってしまいましたが、ともかく、ユバスキュラは面白い。
 そして本日は今週2度目のフィンランドです。トゥルク(スウェーデン語でオーボー)という都市に来ています。ここでは一昨日から北欧教育学会が開かれていて、各国から研究者の方々が集まっています。 昨日の午前中には初めての学会発表をしました。初めての発表を英語でなんて、本当に大変でした。緊張島倉千代子です。でも、発表を聞いてくださった研究者の方々からありがたいコメントをたくさんいただき、 努力が報われた感じがしました。発表前日の夜はエンゲストロームの研究室の院生4人と知り合い、飲みながらたくさん議論をしました。ダイナミックな議論を展開するエンゲストロームの門下なのだから、さぞかし広いのかと思っていたのですが、基本に忠実に、というような、やっぱりフィンランド人らしい研究姿勢でした。 院生は翌日の僕の発表も聞きに来てくれて、フィンランドからの視点をコメントしてくれました。こういう出会いがあると、学会に来た甲斐もあるってものです。
 今年に入ってからのめまぐるしいジプシー的生活もこれでひと段落です。懸案の学会発表も終わり、しばらくウプサラでゆっくりしていられるので、帰ったら早速新しい研究を始めたいと思っています。 本もたくさん読んで、学校も見てまわって、スウェーデンでしかできないことを優先していきたいです。
メディアには出ない裏話もたくさん聞けました
話題沸騰のユバスキュラ大付属へ
初学会発表はとても緊張しました
トゥルクの夕焼け

第134報 2007年04月01日(日)
 駟も舌に及ばず > 写真
 今日は4月1日。地元新聞は「ウプサラにアミューズメントパークができる」というネタを載せていました。今年のエイプリルフールは日曜日 だったので、職場や学校での悪戯ができずに残念でした。
 ところが、地球の裏側で思わぬ大きな釣りができました。時は日本時間11時前、妹に「11時からのNHKニュース(1チャン)で僕が出るよ!!ビデオ撮って!!」とメールをしました。 事前にYahoo!のテレビ欄とNHKのウェブページで番組情報を入念に検索してからの決行です。11時5分頃に「10分番組の後半に出ると思う!」と伝え、ビデオを撮っているか確認。ばっちり釣られている妹を確認した後に「エイプリルフール♪www m(._.)m ゴメン」 のブラックメールを送信!!やった、まんまとひっかかったぜ!!
 と、思いきや、とんでもな事態になってしまいました。妹に送った内容を聞いてお母さんが大はしゃぎ。こりゃ大変だとお兄ちゃんとおじいちゃんに電話。突然の知らせに驚いたおじいちゃんは、「そりゃ、そりゃ、見なきゃいかん」(母談)ということで、おばあちゃんに伝え、おばさんに電話。おばさんは2人のいとこに連絡。早い、早すぎる、この展開。夜も更けきって、夜中の11時過ぎです。テレビに食い入る家族を想像すると笑えてきますが、 こんなに広がってしまうと居た堪れなくなってきます。特に真夜中にたたき起こしてしまった祖父母にはとんだ飛び火を被らせて申し訳なかったです。お母さんはネタばらしのメールの後、 「てんてこまいで」(妹談)方々に謝罪電話をしたそうです。被害者のみなさま方、本当に、ごめんなさい。
 ちなみに、10時に就寝のお父さんは無傷でした。新年度早々、おいしいなぁ。
 さて、フィンランドから帰ってきた後は大風邪をひいてのたうちまわっていました。ちょうど学会からの帰り、フェリーに乗り込んですぐに激しい頭痛と吐き気に見舞われました。最初は 船酔いか食あたりかとも思ったのですが、症状は悪化する一方です。フェリーを降りるときにはほとんど意識がないような状態でした。這う様にしてウプサラの自宅についた後は、三日三晩寝たきりでした。 ようやく食事ができるようになっても、一週間が過ぎる頃までは脱水症状、嘔吐、悪寒、頭痛、倦怠感、意識朦朧、せき、鼻水と何でもありでした。ある晩は吐き気に起き出してトイレに行ったら、全身痙攣で倒れていました。 こういう時、海外一人暮らしは辛い。
 10日ほどすべての予定をキャンセルして休んだら良くなりました。今でもせきは続いていますが。それにしても、問題なのはスウェーデンの医療崩壊です。 前に留学していたときにも救急外来で5時間以上待たされたことがありましたが、今回もご多分に漏れず、です。医療センターに電話すると「今混み合っているのでかけ直してください」とのアナウンス。何度もかけ直し、20回目くらいにようやく「あなたは5人待ちです」とのアナウンスに切り替わりました。 それから「4人待ち」「3人待ち」と減っていき、ようやく自分の番が来たときには40分が経過していました。「とっくに死んでるよ!!」と怒り心頭ながら、風邪の諸症状を伝えていると、途中で電話代が切れました。本当に、この国では病気ひとつできません。
 そんな寒風を乗り切って、ようやく体調も良くなってきたら、天候も良くなってきました。春です。草木や花が色を増し、日照時間も伸び、気温もぐんぐん上がり、いい日和です。 こんなに陽気がいいので、気分も浮きだってきます。
 先週は観察先の学校の先生のお宅でお夕飯をいただいてきました。「世界一くさい」と所ジョージお墨付きのスーストローミングをいただきました。 ニシンを半分腐らせた缶詰なのですが、本当に臭いです。普通は8月に食べるんだそうですが、陽気がいいので食べましょう、とお呼ばれしました。写真では匂いが伝えられないのが残念です。
 カレンダーを見たら、スウェーデン滞在予定の半分をすでに過ぎていることに気がつきました。早いのはお金の減りだけだと思ったら、時間もでした。4月下旬にはおじいちゃんとおばあちゃんがスウェーデンに遊びに来ます。楽しみです。
世界水泳メルボルンでもモンゴルチームを率いています
良平の活躍がメディアに
直後、「臭いもの嗅ぎたさ」に撃沈
怖いものなしは子どもの特権

第135報 2007年04月19日(木)
 春眠暁を覚えず、っず?! > 写真
 春です。でも、スウェーデンの春はとってもシャイなようで、顔を出してはすぐに隠れてしまいます。先々週は雪が降り、先週は20度近くの日が続いて温暖化だなんて言っていましたが、今日は 雹が大量に降ってきました。また氷点下の世界へ連れ戻されてしまいました。天気予報を見ていると前線が行ったり来たりしているのが見事に良く分かります。三寒四温とは言いますが、寒暖の差がここまで激しいのは困りものです。
 今週は生活リズム改善運動を独断敢行中です。日が延びてきて、暖かくなってきたのはいいのですが、こうも急激に変わるとどうしても生活のサイクルが崩れてしまいます。 さらに、イースター休みが一週間まるまる入り、その間に見事に昼夜逆転生活へ突入しました。「春眠暁を覚えず」とは言いますが、寝すぎで体力が随分奪われた気がします。先週は朝10時に寝て昼過ぎに起きるという日もあり、胸に光るプチ鬱ボタンが必死に点滅していました。
 そこで、今週は毎朝きちんと7時に起き、朝ごはんをゆっくり摂り、小腹がすいたらフルーツを食べ、夕飯の後には何も食べない、という模範的な生活を試みています。 そうすると、みるみる体調が回復し、やる気がほんわか沸いてきて、仕事がとっても捗ります。そうしてこうして定時通報を更新できるわけです。スウェーデンの気まぐれな春に負けないように、なるべく長く続けようと思っています。
 最近は夏のバイトを探しています。といっても、コネ社会を自認するスウェーデンでは、外から来た人がおいしい仕事を得るのはとても難しいことです。まずはスウェーデン人の知り合いに聞き回り、その後、意を決して職安(ハローワーク)に相談しに行ったりもしました。 それぞれの人はとても親切に対応してくれるのですが、自分の権限を越えたことは決してやらないので、結局最後は「誰か知り合いを頼れるといいんですけどね」という話に落ち着いてしまいます。スウェーデンでは移民してきた人たちが生き生きと働いている姿を見かけますが、 彼らも最初はこうやって外部者のレッテルを剥がす勝負をしたのだな、と思い遣ります。6月の始めには学校は夏休みに入ってしまうので働けません。そこで、職安は幼稚園の非常勤を強く勧めてきました。 「スウェーデン語で歌を歌ったりできないとだめだよ」とからかいながらですが。勧めに従って職探しを始めようと思ったのですが、こちらの幼稚園で職を得るには、まず警察の「前科なし証明書」を入手せねばならないとのことで、警察さんに手紙を送りました。 2週間ほどで証明書が送られてきました。返事が遅かったので随分心配しましたが、何とか前科は無かったようです。その証明書とCV(履歴書)を添えて、今度はコミューンの幼稚園担当にメールを送ります。スウェーデン語の先生にしっかり赤を入れてもらって、今週火曜日の夜にようやく送信しました。 そして、翌朝には返事が来ていて、「残念ながら、幼稚園の夏の非常勤は空きがありません」と。がび〜ん。挑戦は一瞬で潰えました。
 と思っていたところで、水曜日の午後に小学校を見に行った際、遊技場で先生方と駄弁っているときにその話をしていたら、校長先生が通りかかって、「お、夏のバイト探してるの?じゃ、何とかしとくよ」って、軽く言って出て行きました。 どういう仕事がどれだけもらえるのか分かりませんが、こんなに簡単な道があったなんて知らなかったです。さすが、言うだけあってコネ社会です。
 ウプサラに来て最初から感じているのは、この町の保守的な態度です。ウプサラはスウェーデンで一番移民が隔離されている地域でもあり、保守傾向が強いのは僕の感覚以上に確かです。歴史と伝統のある街な上、研究者をはじめとするハイ・ソサエティが多くいる点も保守を支える一因になっているのでしょう。 去年の夏に来たときに、参観できる学校を見つける必要があって、ウプサラの多くの公立学校にメールを送ったのですが、ほとんど返事が返ってきませんでした。そして、丁寧に返してくれた返事もそのほとんどが断りの連絡でした。 ヨテボリにいた時にも結構な数の学校を訪れたのですが、学校参観のお願いを断られたことは一度もありませんでした。地域性の違いというのは生活の何気ないところから頻繁に感じられます。そして、この経験知に今回の就職活動も加わってしまいました。 ウプサラの壁は結構頑丈なようです。
 おじいちゃんとおばあちゃんは来週月曜日に来端します。天気が良くなってくれることを願っています。また、5月には天皇陛下が来端し、植物学者のカール・フォン・リンネの生誕300年祭にご出席されます。光栄なことに、ウプサラ大学学長の取り計らいで 陛下来端記念教育学セミナーへの参加とリンネ生誕300年祭公式式典への出席、レセプションへの招待をオファーされました。皇后陛下には三宅島が噴火した折に疎開児童に紛れて御料牧場のアイスを頂いたことがありますが、天皇陛下はお初にお目にかかります。 そして、願わくばスウェーデンの国王カール・グスタフ16世と彼の美人な娘さんたちにもお会いしたいところです。困っているのは、スウェーデン語のナショナルテストがちょうどこの二日間にあって、どちらかを選択しなければならなくなるかもしれないという懸念があることです。 スウェーデン語のテストは「移民のためのスウェーデン語」コースの修了試験も兼ねていて、これをパスすれば次のステップ(SAG)に進めます。民度と移民度がともに上がるわけです。今後のことを考えたらこちらの方が重要度は高いのです。さて、目先のシャンパンをとるか、賢い未来投資をとるか。besvarligt...
スウェーデンの春はとってもシャイなので、ちょっとすると冬に逆戻りです
春がいじらしく顔を出して
引越しパーティで飲みながら遊ぶ
引篭もりの後の外遊びは格別


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